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今回は、『居酒屋「串カツ田中」の田中洋江!父親のレシピを偶然発見して大成功』について考察していきます。
田中洋江さんは、有名な居酒屋「串カツ田中」の創設者の1人です。
現在では、全国に300店舗以上を展開する「串カツ田中」ですが、1店舗目をオープンするまでには、様々なドラマがありました。
この記事では、そんな串カツ田中が、店舗をオープンするまでのドラマをご紹介します。
それでは、ご一緒に『居酒屋「串カツ田中」の田中洋江!父親のレシピを偶然発見して大成功』について見ていきましょう!
ぜひ、最後までご覧ください。
田中洋江の貫啓二との出会い
父親の串カツ
田中洋江さんは21歳の時に父を亡くしました。
父である勇吉さんは生前、不動産業で働いていましたが、時間さえあれば最高の串カツを作ることに情熱を注いでいました。
父親が作ったその串カツは、田中さんの大好物。
父・勇吉さんの串カツのレシピは、どこかに紛れて失われてしまったと思っていた田中さんは、大学を中退し、広告代理店のOLとして働きながら、余暇を父のレシピ再現に費やしました。
貫啓二との出会い
広告代理店で働くかたわら、現会長の貫啓二さんが経営する大阪のショットバーでアルバイトを始めます。
貫さんのショットバーは客が訪れるものの、休みなく働いても利益には結びつかず、新たな計画を探っていました。
その時期、田中さんは大阪の串カツ店で美味しい串カツを楽しんだ後、父のレシピを再現しようと何度も試作を重ねますが、望む味を出すことができませんでした。
東京の割烹料理店
貫さんが最先端のデザイナーズレストランを開きたいと田中さんに相談したところ、田中さんはそのアイデアに賛同し、会社を辞めてその新しい店舗の立ち上げを手伝うことを決断。
田中さんは広告代理店で働いていた経験を生かし、飲食業界の人脈を使って、有名なデザイナーに店舗のデザインを依頼することができました。
そして、彼らは大阪に最先端のデザイナーズレストランをオープン。
新しい店舗はすぐに評判となり、多くの客で賑わいました。
元々ショットバーだった店舗も、新しいコンセプトに変更して営業を続け、好調な売上を記録しました。
その成功により、貫さんは東京・青山に京懐石料理の店をオープンし、その運営を田中さんに任せることとなりました。
父親のレシピを発見
レシピの発見
大阪の2店舗と東京の京懐石料理店は、売上が順調でしたが、リーマンショックの影響で客足が急減し、倒産の危機に。
そのため、貫さんは東京の田中さんに「会社はあと半年持たないだろう。大阪に戻る準備をしてほしい」と伝えました。
そんな中、田中さんが引越しの準備をしているとき、荷物の中からチラシの裏に書かれた父親の串カツのレシピが見つかりました。
そのレシピで串カツを作ってみると、非常に美味しかったのです。
田中さんの串カツへの強い情熱を感じた貫さんは、串カツ店を開く決意をしました。
「串カツ田中」の出店
串カツ専門店を開くにしても、会社は倒産寸前で資金がほとんどありませんでした。
限られた資金での開店は難しく、結局、東京・世田谷区の繁華街から離れた住宅街にある雑居ビルの1階、14坪の元スナック店舗を居抜きで借りることに。
店舗は、残されていたテーブルに板を貼り、パイプ椅子を置き、壁にメニューを掲示するだけの格安でシンプルな作りで開店。
開店した「串カツ田中」は、人通りがまばらな住宅街という立地条件から、初めはお客さんの入りは多くありませんでしたが、徐々に人気が出てきて、やがては店の前に行列ができるほどの繁盛店になりました。
「安くて美味しい」との評判が口コミで広がり、開店半年後には月間売上目標の400万円を大きく上回る800万円を達成。
この成功を受けて、貫さんは「串カツ田中」に事業を集中することを決意し、大阪にある2店舗と東京の京懐石料理店を売却しました。
「今までとは全然違う」と感じた貫さんは、「串カツ田中」という新たなビジネスモデルに全力を注ぐことにしました。
串カツ田中:父親のレシピのまとめ
田中洋江さんが、引っ越しの際に偶然見つけた、父親の串カツレシピ。
「串カツ田中」という店名からも、貫啓二さんの田中洋江さんの父・勇吉さんへのリスペクトがうかがえます。
コロナ禍で会食自粛の中、貫啓二さんが自身の誕生会を行ったことが世間に知れ渡り、2022年7月、貫啓二社長は「取締役会長」へ、田中洋江副社長は「取締役相談役」に、人事異動が行われました。
今回は、『居酒屋「串カツ田中」の田中洋江!父親のレシピを偶然発見して大成功』について考察しました。
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